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2021年4月28日水曜日

僕のBC黎明期(Ⅰ) 浅間山・草津白根山・上州武尊山

この間の至仏山BCで、ハイクしながらモロちゃんと楽しい話をした。至仏山に来て周囲の山を見渡すと、テレマークスキーで登って滑った山がいくつもある。目の前の尾瀬ヶ原の向こうにある、双耳峰の燧ケ岳とかもそうだ。あそこは、凍結した尾瀬沼を渡って、ツェルトで泊まって滑ったなとかね。で、話をしているうちに、僕がどうやってBCを始めたのかを書いてみようかなって思った。

もう何度も書いてるけど、僕はスキーにどハマりしてた。学生時代に1シーズンアルバイトでお世話になったスキースクールがあった。そことのご縁がずっと続いていて、校長やら、デモ選とかに出るような他のイントラたちと一緒に滑るという、幸せなスキー生活を送っていた。

ところが、バブルが本格的に弾けて、スキースクールが閉校になることが決まった。そして、イントラのみなさんも散り散りになり、なんというか僕は虚無感に襲われた。で、僕はふと手に持った雑誌を読んで、山スキーを始めてみようかと思った。

その頃僕が住んでいた街には、ICI石井スポーツがあった。競技スキーやブーツはいつもそこで買っていた。わりと頻繁に行っていたので、そこの店でも山スキーやテレマークを売っていることは知っていた。

で、僕はアゾロ(ブーツ)と、ブラックダイヤモンド・シンクロX(板)に、ロッテフェラー・スーパーテレマーク(バインディング)のセットと、クライミングスキン(シール)を買ってテレマークスキーを始めた。

最初は浅間山周辺で練習した。

高峯山、東籠塔山から水の塔山周辺でシール登行、ツボ歩行を練習し、ゲレンデで滑りを練習した。そして、どのくらいの寒さまでなら、どんな服装で耐えられるのかを知るために、着の身着のままで駐車場の脇の樹林でビバークした。ま、仕事終わって車で移動して、夜遅くに着いて、着替えて外でビバークするだけだけどね。

夏山は結構登っていたが冬山経験は無い。ローカル小規模の小売店勤務で有給休暇とか連休とか取れず、平日休み。一般サラリーマンとは接点無いし、山岳会とかにも入れない。周囲に同じ趣味を持つ人もいなかった。しかたなしに単独行、一つ一つ段階を踏んで、経験を積むしかなかったのだ。

Yukama, Mt. Kusatsu Shirane

この時代はまだフィルムカメラが主流だったので、写真があまり残っていない(実家にはあるはず)。浅間周辺でそれなりに経験を積んだ後は、ビバーク訓練を草津白根山でやった。夜はマイナス15〜18度くらいまで下がったけど、それくらいまでなら準備さえしていれば大丈夫なことは自信になった(注1)。

草津ロープウェイ山頂駅から湯釜に向かう

当時の草津国際スキー場のパトロール隊には、山スキー経験者の親父さんたちが居た。

一人でビバーク訓練?湯釜の近くで?
できればやめて欲しいんだけどね〜 (嬉しそう)
テントは禁止だからね!国立公園だからね! 
え?テント持たない?ビバークだから? (さらに嬉しそう)
寝袋だけはツライよ〜!えっ?寝袋も持たないの? (満面の笑顔)

で、他の隊員さんに向かって、

オイ、天気予報チェックしろ!明日の最低気温は?
バカ、それは下界だろ、湯釜の最低気温は?

んで、隊員さんは、湿度換算表と標高で計算したのかな…

…氷点下15度から18度くらいですね。
後は風ですけど、北風で4〜5mくらいはありそうです。

えっとねー、お客さん、湯釜周辺は、体感温度マイナス20度くらいになりそうなんで、訓練としたら最高かも。良く晴れるので、星も綺麗で、流星群も見られるかもね(注2)。ただ…放射冷却でもっと下がるかもしれないけど。え?行くの?仕方ないなー 

で、そんなことをなんどかやって、少しずつ行動範囲を広げていった。

芽吹き

それまでは悲しいだけだった春の訪れも、山でいろいろな変化を見るにつれて、愛おしく感じるようになっていった。

ブナの樹林帯をハイクする(武尊牧場上部)

ハードパックのピステで、正確に、力強く、板を走らせることを考えてばかりいたのに、雪原を歩いたり、ちょっとした斜面を滑ることに楽しさを見つけた(注3)。


武尊牧場から上州武尊を目指すが引き返す

浅間山・白根山でまずスタートしたのは、積雪量が少なめだったから。雪山初心者なんで、最悪ツボ足でも下山できるようなエリアに行こうと決めていた。翌日も仕事なので、何があっても下山できるってことが重要だった。

で、道具も見かけほどヤワで無いことがわかり、ステップソールとクライミングスキンの登坂能力とか、いろいろ解って来たので、次のステップとして上州武尊エリアに通い始めた。

武尊牧場スキー場から上州武尊を見る

玉原高原あたりはちょっと斜度がなさすぎで、川場あたりは逆に谷が深すぎた。オグナ(確か当時は違う名前だった気が?)あたりが本当は良かったのだろう。しかし、オグナ周辺は組織化された山スキーヤーばかりのエリアで、ヘボいテレマークスキーヤーが単独でBCに入って行くのはなかなか難しい空気感だった(注4)。

で、僕は武尊牧場周辺を歩いていた。当時わりと有名な映画の撮影がされた、ブナの林があったりして、人も少なくて良いところだった。

そして、僕は次のステップとして、「より斜度のあるところ」と、「より距離のあるところ」を目指すようになった。当時の住まいと仕事の関係で、翌日に無理なく帰ってこれて、日帰りで行けるところ、谷川岳と尾瀬至仏山。その周辺の25,000分の1地形図を手に入れて、暇があればそれを眺めるようになっていった。

つづく


注1 この時代の写真を見ると、ウェアの色彩がヤバ変。ゴアテックスかエントラントでウエアを揃えたいけど、安月給なので、ワゴンセールしか手が出せない。サイズが合うヤツはだいたい「色・柄」が不人気で残った不良在庫なので、そんなのばっかり買っていると、全身オレンジ、フリースは微妙な色のグリーンとかになっちゃう。

注2 この時、なにかの流星群が来ていたことは覚えている。1996年か97年くらいだろうか。

注3 テレマークスキーを履いてすぐはまともに滑れなかった。前傾過多で、前乗りの癖があったので、ターンの切り替えで前に転ぶ。これがテレマークで是正されて、結果、ポールのタイムが向上したのだから皮肉な話。というか、テレマークスキーをやってあらためてスキーの基礎的な技術を再確認した。レーサーほど、テレマークやったほうがいいと思う。

注4 当時はまだテレマークスキーそのものが黎明期だった。数少ない「上手くて強い」テレマーカーは山で滑っていた。そして、山に入れない、滑れない人たちがゲレンデにいる。で、ゲレンデテレマーカーは…あんまり格好良くない。口の悪い人は、「衣紋掛けスキーヤー」みたいに言ってた。ただ、ギョーカイと本人たちは、それが格好いいんだって言いたい?みたいに、衣紋掛けスタイルを「優雅で踊るように」みたいな表現をしてたような気が、気のせいでしょうけど、気がします。