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2025年6月27日金曜日

DNS は賢者の証し、DNF は勇者の証し

少し前に、この二年間のブルベを振り返ってみた。

ボクのブルベ完走率はかなり高い。理由の一つは、ボクは登山の経験をベースにブルベを走っているからだ。

登山では、なんらかのリスクで計画通りの行動が困難であれば、DNS(Did Not Start 出走見送り)をする。無理をして、途中敗退(この場合はDNFと言わないね…)ならまだしも、遭難したら周囲に迷惑がかかる。登山はDNFを前提にしないスポーツなのだ。

ブルベも登山と同じだとボクは感じている。自己責任、自己救済が原則で、必ず余力を持って完走する。そうした文化において、DNSは冷静さの表れであり賢者の証しであるとボクは思う。

それでは、DNF (Did Not Finish) はどうだろう。途中でギブアップした、挫けた、退けられた、「敗北」なのだろうか?ボクはそうは思わない。

400kmとか600kmのブルベは「果てしない」距離を走る。

昼も夜も走ってゴールが近くなり、完走がほぼ間違いないと感じる瞬間がある。あとは事故なく、怪我なく確実に、ゴールへ行けばいい。そんな時に、ボクは何を考えているのだろうか?

もっとやれたんじゃないか?
俺は…挑戦してないんじゃないか?

ちょっと何を言っているのかわからないと思う。

ただ、ボクは、そもそも完走できそうなブルベしか、エントリーしない。

「完走できそう」という意味には、「多少コンディションが悪くても」という但し書きがつく。雨でも、向かい風でも、暑くても寒くても、機材トラブルがあったとしてもおそらく完走できるだろうということ。

大きなトラブルがなければ、余力を残してゴールする。

そうなるとねぇ…完走した嬉しさはもちろんあるのだけれど、ある意味それは当然のことになってくるのだ。「やり遂げた」とか「限界に挑戦した」という、ヒリヒリするような感覚は薄い。むしろ、「日和ってんじゃねぇか?オレ」という、なんというか、不甲斐なさを感じるのだ。ただまぁ、老境にさしかかっているボクちん、限界に挑戦して三途の川を渡るのはイヤだしなぁ。

ところで、ボクが楽しんでいる登山と、トレランはわりと違う世界観がある。トレランの荷物は小さく、装備品は少なく、登山者界隈からは「あんなんで大丈夫なのか?」と、訝しむ声も聞こえる。

ただ、ボクにはトレールランナーの友達が何人かいて、彼らのSNSを見ていてちょっと感じたことがある。ボクが思うに、トレランはDNF がありうることをベースに組み立てられたスポーツなんじゃないかな。

思う存分、限界に挑戦できるようにしたい、そーゆー気持ちで環境を整えている気がする。たとえぶっ倒れてDNFが確定したとしても、遭難にはならない。スイーパーがいて、エスケープルートがあって、回収車が走っていてサポートしてくれる。「最後はなんとかしてあげるから、ぶっ倒れるまで逝っちゃって?」ということなのではないか。

そうであるならば、トレランのDNFは自分の全てを出し切ったということだろう。DNFになるか完走になるか、ギリギリのところに挑戦したということ。それは決して敗北ではない。

脱線したけれど、ブルベでも登山でもトレランでも、怪我なく帰ってくる限りにおいて、DNFも勲章だ。初めて経験する距離や、獲得標高に挑戦し、限界までプッシュしてのDNFは勇者の証しだ。

トレランでヤバイ距離を完走したランナーは、もちろん嬉しいだろう。それと同時に、限界まで出し切ってDNFし、悔し涙を流したランナーも…あとで振り返れば、なんというか、人生のハイライトになるんだろうな。そう思うと、羨ましいぞお前らw

ボクはずいぶんと、ギリギリを攻めるような遊びはしていない。最近では、


ちょっと前だと、
谷川岳馬蹄形縦走日帰り」 とかかなぁ。

社会的責任をあまり考えないで済んだ時は、ギリギリ遊びもたまにはしていた。

寒冷前線通過中の極寒、全ての物が吹き飛ばされるような暴風、ホワイトアウトの世界を単独で彷徨したり。

暴風で吹き流されたグローブが宙を舞う

写真撮ってる場合じゃないかもw

年末年始に至仏山を滑ろうと、単独で鳩待峠に入ったら暴風雪が来て閉じ込められたり。

一晩中除雪に追われて迎える朝

この時は3日3晩雪が降り続き、至仏山滑るどころの話ではなくなって、撤退を決めた。鳩待峠からの単独ラッセル下山は遅々として進まず、戸倉までまる2日かかった。

1週間の食料と燃料を背負う

小康状態狙って周囲を深く掘り下げておく

そんな…割と…破茶滅茶な遊びがあって、チキンハートな老人が産まれたというわけなんですネ。おしまい