僕が住んでいた学生寮を出て小道を進み、胸突坂を下ると神田川に出る。
神田川を渡って、古い住宅と、新しいワンルームマンションと、本や雑誌の小さな工場(こうば)が雑然と並ぶところを通り過ぎると、母校の講堂が木立の向こうに見えてくる。
いつもの通り寝坊した僕は、いつもの通り最低限の荷物を突っ込んだリュックを背にし、いつもの通り慌てて寮を出た。
胸突坂を駆けるように下り切ったところで、神田川の橋の上を、急ぎ足で戻ってくる橋本(仮名)が目に入った。
オウ!
橋本はそう声を出して僕の注意を引くと、
お前もかぁ!それ!それ!
と呆れたようであり、ちょっと浮かれたような口調で僕の腰のあたりを指差した。
アッ…
そして僕とヤツは肩を並べて引き返し、狭い胸突坂を登り返して寮に戻った。
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話は少し変わるが、80年代の半ばを過ぎた辺りは、バブルの真っ只中だった。景気は良くて当たり前で、世の中は活気に満ちていて、新しいコンセプト、素材、デザインがどんどん生み出されていて、ファッションも目まぐるしく変化していた。
そんな空気感ではあったのだが、僕を含めて寮生の大多数はファッションに興味は無かった。男ばかりが300人近く住んでいる寮、そんなところで青春のリピドー青春の貴重な4年間を過ごそうというのは、やっぱりちょっと変わっていて、地方の男子校から、男ばかりの大学に進んだという奴らが多かったと思う。
ファッションに疎い僕らではあったのだが、服飾史に残るであろう大変革には飲み込まれていた。
その中で、僕らにとっての ディープ・インパクトは、そう、トランクス。
当時、男子学生の下着と言えば、ブリーフが宇宙の中心を占めていた。ブリーフのブランド品と言えば「GUNZE」で、木綿100%の純白が基本だった。学生寮には大浴場があったのだが、そこでの観察結果もほぼ全員がブリーフ。ごく僅か…「ふんどし」を愛用する漢もいたけれども、彼らは例外中の例外だった。
そこにトランクスが登場し、僕らの心を鷲掴みにした。
すずしい
締め付けない
おキンキンが蒸れない
おティンティンの形が出ない(出る場合もあるけどな…)
僕ら寮生は、夜な夜な誰かの部屋に集まって酒を飲んだ。冷房なんて付いていないから、梅雨時くらいから秋深まるまでは暑い。暑いから薄着になりたいのだけれど、ブリーフでアグラはさすがに礼儀としてまずい。
だがしかし、トランクスならどうだ?
あれはほぼ短パンみたいなものであって、丈の短い短パンみたいなものであって、丈が短いから変に捲れ上がってアレがポロリンちょしない限りは短パンみたいなものである。
そんなわけで、僕らの寮ではちょっとした下着革命が起こった。
もう…一日中トランクスにTシャツかタンクトップが当たり前。寮内では上半身裸で闊歩することも黙認(流石に食堂で裸は注意されたが)されることになった。
そんなトランクスにもいくつか欠点があった。小さな欠点としては、ジーパンの中で裾がずり上がること。こうなると、ブリーフの裾にシワシワの蛇腹が縫い付けられているような見かけになって、オネエちゃんの前でいざと言う時にかっこ悪い、着心地が悪くなる。
そして、大きな、というか致命的な欠点なのだが…
トランクス ≒ 短パン であるという哲学的概念が、あまりにも一般化されすぎた社会で生きる僕たちにとって、トランクスは所詮は下着であるという倫理学的概念を持つ世間とが激しく衝突するということになる。
しばしば僕たちはうっかりトランクスで外出し、「世間」との世界線で激しいコンフリクトに出会い、すごすごと引き返すことになった。
そして、僕とか橋本みたいなW大生にとって、この世界線は神田川の橋の上に引かれていたのだった。
おしまい
追記:
「トランクスゆるされるかも世界線」は、人によって、日によって違っていた。
一部の先輩は、トランクスで何も気にせずに通学していた。
僕も、よりによって単位を落とすかどうか瀬戸際のテストの朝、胸突坂の下でこの結界に突き当たり…寮に帰ったら間に合わないので、「世間の目という業火」を掻い潜って出席し「可」をゲットしたことはある。
この先輩と寮の風呂でトランクスの話になった時、二つの点で意見が一致した。「前開きで無いトランクスこそ危機管理の面で至高である」こと。もう一つは、「物干しから取り込む時、陽に透かしてうっすら向こうが見えるようになったら要注意」ということだった。あの先輩、今、何してるんかなぁ。