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2021年10月4日月曜日

気をつけないと…バレちゃうよ?

僕は彼女が何を言っているのかわからなかった。
数秒後、やっと意味を理解した時には、彼女はもう向こうを向いてスタスタと歩いていた。

彼女は、廊下の角を曲がる前にこちらを見てにっこり笑った。そして、彼女が階段をタタタタと駆け降りる音が、殺風景なクリーム色をした10号館の廊下にリズミカルに響いていた。

彼女のショートカットの髪が、元気よく跳ねる様子が僕には見えた気がした。

僕は友達と話をしていた。当然のことながら、話題は彼女のことになる。

おい、なんだ、知り合いなのか?
いや、語学で一緒になったことはあるけど。 
あの娘、なんかいい感じなんだよな。 
そうそう、2年なんだよ、俺らと同級だね。

廊下は教室の北側に続いていた。対面にある法学部の、窓に反射した陽の光が差し込んでいる。廊下を舞う細かい埃が渦を巻いていて、彼女が放した羽毛がその光の中を漂っている。

あんな子いたっけ?本キャンに?
めずらしいタイプだよね、文キャンならいそうだけど。

僕の母校は学部によって、キャンパスがバラけている。理工学部はほぼ男。文学部は半々。そして、僕がいる政治経済法律商学教育の本部キャンパスは、90%以上が男。教育学部は少々女性の比率が高いのだけれど、それを均して出る比率で9割以上が男。

新入生は、選択した外国語によってクラス分けがされる。僕は中国語を選択したのだけれど、同じクラスに60人がいて、そのうち3人が女子だった。

そして、他のクラスの同級生からは、「お前らのクラスは女子の比率が高くていいな」と、羨ましがられた。他のクラスは比率というか…ゼロか二人。それくらい、ほぼ男子大学だった。不思議とクラスに女子が一人というパターンはあんまりなかったような気もする。それはなんらかの配慮だったのかもしれない。

僕は1年目の中国語で「不可」を取り、再履修となった。そして、同じように再履修になったらしい彼女と、何度か近い席に座った。大多数は新入生で、履修1年目。その中で、不可くらって再履修組は、自然に近い距離感で集まっていた。

彼女は、なんというか、人目を惹くタイプだった。

というか周囲が男ばかりなので、女性がただそこにいるだけで人目を惹くのだが…彼女が発する雰囲気というかオーラというか、わずかなシャンプー?の芳香だけで、僕らはなんとなく落ち着きを無くしてしまう。

で、そそっかしいらしい彼女は、時々ペンとか消しゴムを落とす。僕らはそれを拾って彼女に渡す。

図々しい奴等は、それを機会に彼女と連絡先を交換しようとか、お昼を一緒に食べようとか、そんなアプローチをしていたらしい。そして、みんな玉砕していた。

僕は男子校から、この「ほぼ」男子だけの大学に進み、数百人の男子学生が住む学生寮から通学していた。

寮生のみんなは知的能力に優れ、人間的にも素晴らしい奴等ばかりだった。だが、思春期の男子生徒が数百人も棲むという破壊力は甚だしい。通りの反対側をちょっと入ったところにあるN女子大の寮では、新入生のオリエンテーションで「あそこの学生には関わるな」と言われているとも聞いた。

まぁ、その、周囲が男ばかりの環境で育ち、男ばかりの大学に通い、男ばかりの学生寮で毎晩呑んだくれているという…関わらない方がいい集団…ではあった。

僕は、幸いにも姉がいた。幼い頃から、姉たちが僕をいろいろな意味で躾けてくれたおかげで、僕は女性と相対しても普通に話ができた。というか、「女性」という存在に、過大な期待も持たず、さりとて劣位に見て自分の価値を相対的に高めるみたいな、そんなクダラナイところから離れることができていた。

姉達を見ていれば、性別に関係なく人間は人間なんだということが良く分かったから。

で、そんな僕のことを、彼女はちょっと安心して見ていてくれたようだ。

教室に入るときに、彼女と出くわす。僕は譲る。

10号館の入り口は重い両開き戸になっていた。鉄製の枠に分厚いガラスが入っている扉を肩で押開けて入り、振り向く。時々、そのタイミングで彼女がいた。で、僕は扉が閉まらないように抑え、彼女はあかるく「サンキュー」と言いながら通り過ぎる。

そんなことが何回かあって、「紳士だね」とか、「やさしいね」とか言われたこともあった。

で僕は、「姉ちゃん達に怒られるからね」と、シスコン的な返しをしていた。

でもまぁ、情けないことに、彼女の顔はまったく記憶にない。僕もなんだかんだ言って、彼女のことは意識していたのかもしれない。意識していたからこそ、あえて彼女をじっと見ることもなかった。かすかに覚えているのは、彼女の大きくて、ちょっと薄い茶色の瞳くらいか。

で、だいぶ冷え込んできた冬の日、僕は廊下で友達と話をしていた。

彼女が後ろから近づいてきて、僕のダウンジャケットの肩を優しく触って何か言った。

「え?」 僕は何を言われたのかわからなくて、聞き返した。

彼女は僕のダウンジャケットを触った指先に、白い羽毛を摘んで僕を見つめた。

この太い指は僕のです

子供のたわいないイタズラを見つけてやさしく叱る、母親のような口調で言った。

気をつけないと…バレちゃうよ…?
何が…? バレちゃうって? 
 
天使だってことが…バレちゃうよ。

そして彼女はいつも通りスタスタと廊下を歩き去り、僕の友達は…

おい、なんだ、知り合いなのか?
いや、語学で一緒になったことはあるけど。 
名前は? 
?いや?知らんけど? 
なんだよ!勿体無い!聞けよ! 
そうそう、2年なんだよ、俺らと同級。

的なことを僕に言い募る。

すぐに年末が来て年が明け、ゼミの選考をくぐり抜け、サークルの雑事も増え、合間を縫ってバイトをこなす。そんな日々を過ごしていたせいか、彼女と再会することも、会話することも無く終わった。

彼女の顔は記憶の彼方に去り、僕の風貌は随分変わった。再会してもお互いに気がつかないのではないか?

冬に備えて出したダウンのブランケット、そこから飛び出した小さな羽毛。それを摘んで眺めていたら、30年近く前の思い出が、記憶の襞の奥からぽっかりと浮かび上がって来た。

もし、彼女に再会することがあれば…聞いて見たい。

僕の背中には、まだ、天使の羽が生えているだろうか?